歌枕、白河の関

能因(988-1050):平安時代の僧侶、歌人中古三十六歌仙のひとり。

有名な逸話が「古今著聞集」にある。

 あるとき能因は「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関」という歌を詠んだ。この歌のできばえに満足したが、能因は白河を旅したことがなかった。そこで自分は旅に出たという噂を流し、家に隠れこもって日焼けをし、満を持してから発表したという。

 

都を春霞(黄砂現象)のころ立ち秋風の吹くころ白河の関に至った、思いば遠くにきたもんだ。ということで、都と白河の関の距離を,歌を詠んでくれた人に測らせたわけです。

 

白河の関は、鼠ヶ関(ねずがせき)、勿来の関とともに奥州三関の一つに数えられる関所。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い。福島県白河市旗宿がその遺構に比定(他のものと比較して推定すること)されており、国の史跡に指定されている。

 

1960年代の発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防御施設を検出、1966年9月12日に「白河関跡(しらかわのせきあと)」として国の史跡に指定された。

 

ここは私としては独鈷仁吉さん(先々代理事長)との思い出が大きい場所です。

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伊王野白河線越しに白河神社の丘を観る。白河の関はこの神社の境内にある。バスストップの掲示白河の関。丘の向こうは白河の関森林公園。

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大和の軍事的要衝としての白河の関の機能は平安中期には解消したものと考えられている。関の廃止後、その遺構は永く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年(寛政12年)白河藩松平定信は、文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であるとした。それを記念した「古関蹟の碑」。

 

松平楽翁公は寛政の改革を推し進める中、何せ文武両道の大権化だったので、「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ブンブブンブと 夜も寝られず」、などという狂歌もでた。その考証はうるさいものだったと推測される。

 

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神社の由来。源氏のスーパーヒーロー太郎義家や、もう一人の悲劇のヒーロー九郎判官義経さん、戦国の雄伊達政宗さん、相撲の二所の関部屋の文字が並びます。

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縄文時代から古代、中世に至る複合遺跡であることが明らかになっています。

金売吉次さんや牛若丸さん、太郎義家さん、頼朝さん達が通った時は関所の役目は終了していた訳です。そして歌枕として広く知られるようになっていたことでしょう。

白河神社の御利益は「道中安全」、うなずける。それでは弁慶さんと九郎判官義経さんとの「勧進帳」で有名な「安宅の関」神社の御利益は? 「難関突破」。またまたうなずける。

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能因さんの歌は冒頭で申し上げたとおり。

梶原景李さんは景時さんの御薫陶が効いていて、阿諛追従を述べます。頼朝さん貴方の御威光に恐れをなしてですね、御覧なさい関守さん達は慌てて逃げ去ってしまいましたよ。本当は前からいないんだけど。

 

これが歌枕というものです。近代和歌が重視する写実ではなく、あくまでも雰囲気、ノリソリ、東洋印象派、象徴の芸術。これが「能」であり「歌舞伎」になっていきます。

 

松尾芭蕉さんは : ビギナーズクラッシック奥の細道から。訳文を記す。

 白河の関ー白妙(しろたえ)の卯の花

 

いまだ心が落ち着かず、日数ばかりたつうちに、白河の関に入ったが、ここでようやく、みちのくの旅の志が固まった。昔、平ら兼盛がこの関で、「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと(よいついでがあったら、今日無事に白河の関を越えたことを、ぜひ都の家族に知らせたい)と呼んで、といついでを求めたのも無理はない。

とりわけ、この白河の関は、奥羽山関の一つで、風雅を愛する文人達が心を寄せた史跡である。

能因法師の歌「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(都を霞のたつ春に出発したが、白河の関に着くと、もう秋風が吹いている)を思い出すと、その時の秋風が耳に聞こえるようだ。

また、源頼政の歌「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関(都を出発するときは、木々の葉はまだ青葉だったのに、白河の関ではもう紅葉になって地面に散り敷いている)」を思い出すと、その時の紅葉の美しい情景が目に浮かんでくるが、今目の前にしている青葉の梢も心にしみるような味わいがある。

この時期は、卯の花が真っ白に咲き添って、まるで雪に包まれた関を越えるような気分である。

その昔、竹田太夫国行がこの関を越えるときに、能因の名歌に敬意を表して、冠をきちんとかぶり直し、衣服を着替えて通ったという話が、藤原清輔の歌論書「袋草紙」に収められているそうだ。

 

卯の花をかざしに関の晴れ着かな  曽良

 

卯の花を髪に挿し、晴れ着の代わりにして関を越えよう。季語ー卯の花(夏)

 

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」という語り口で始まる奥の細道の訳文です。私なんぞとは気合いの入れ方が違う、文は人なり、。管理人はお笑い芸人か?