古代の湖(12)おくのほそ道

浅香山ーー浅香の沼のかつみ

原文: 等窮が宅を出(い)でて五里ばかり、檜皮(ひわだ)の宿を離れて、浅香山あり。道より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころもやや近う(ちかう)なれば、いづれの草を花がつみとはいふぞと、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね人に問ひ、「かつみかつみ」と尋ね歩きて、日は山の端(は)にかかりぬ。二本松より右に折れて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。

 

訳文: 等窮の家を出て、およそ五里ほど進むと、檜皮(ひわだ)という宿場がある。

そこを少し行くと歌枕で有名な浅香山(安積山)があり、街道からは近い。このあたりは、古歌にあるように沼が多い。

今は、かつみを刈る時期も近づいてきたころなので、どの草を花がつみというのか、土地の人々に尋ねてみたが、誰も知っているものがいない。沼のほとりを探したり、人に聞いたりして、「かつみ、かつみ」と訪ね歩いているうちに、日は山の端に傾き、夕闇が迫ってきた。そこで、かつみ探しはあきらめて、二本松から街道を右に折れ、黒塚の岩屋をちょっとのぞいて、その夜は福島に泊まった。

 

黒塚の岩屋は「安達ヶ原の鬼婆さん」が住んでいたという岩窟。謡曲では「安達ヶ原」「黒塚」。

 

歌枕で有名な浅香山 : 浅香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに (万葉集16)

 

浅香の沼 : みちのくの安積の沼の花がつみ かつ見る人に恋ひやわたらむ (古今和歌集):奥州浅香の沼の花がつみは有名だ。そのかつみではないが、かつ(=ちらっと)見ただけの人に、いつまでも恋い焦がれることになるのだろうか。とても忘れられず苦しい。

 

この下りが現在の「日和田町、安積山公園」に繋がるわけだ。どうも芭蕉さん達は、ここでは、あれが浅香山でこっちが〇〇山でという詮索はしなかったようだ。ただし沼が多い所だといっている。浅香山は街道から近い、と。

安達太良連峰も額取山も美しく見えるのに。

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写真は2020年8月31日福島民友からコピー。阿武隈川に架かる昭代橋。

安達ヶ原 : 二本松市東部、阿武隈川南岸にある地名。安達ヶ原は歌枕として多くの歌に詠まれ、安達太良山南東麓の本宮盆地を指すとも言われる。この土地には古くから鬼が住むという伝説があり、平安後期成立の「拾遺和歌集」に、平兼盛の歌として「みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりときくはまことか」の歌が入っている。

 

芭蕉の「おくのほそ道」そのままですと、ものすごいスピードで曽良と共にこの地域を駆け抜けたという印象があります。早馬の旅かも知れない。この辺が「本当に芭蕉さん歩いたの?」という話にもなるが、1943年(昭和18年)河合曽良の「日記」が見つかってからは少しく様相が異なってきました。

以下は2019年9月16日、福島民友新聞社みんゆうNet おくのほそ道まわり道、より。

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曽良日記によると元禄2年(1689年)4月29日、芭蕉曽良は馬に乗り、乙字ヶ滝近くで阿武隈川を渡り右岸を北上。小作田(須賀川市小作田)経由で守山(郡山市田村町山中、守山)に着く。守山では「大元明王」(泰平寺、現田村神社)を参詣し、収蔵品の絵画を鑑賞した。昼食後、再び馬で出発。金屋村(郡山市田村町金屋)で阿武隈川を舟で渡り、日出山宿(郡山市安積町日出山)で奥州街道に入ると、日没前に郡山宿(郡山市中町周辺)についた。

 

芭蕉達は同地で一泊したが、曽良日記には「宿むさかりし」(宿が汚い)と一言だけある。福島で泊まった感想は「宿きれい也」。郡山宿の印象は良くなかった。なお芭蕉さんは馬に乗り曽良さんは徒歩のようです。

 

この後は安藤智重さん(安積国造神社宮司)の「安藤親重覚書」からの発見が続くのだが、これはそのうち宮司さんが直接話する機会があるだろうから、後の楽しみと言うことにします。

*本ブログは管理人が看護学校の講義が来月から控えているため、準備が必要で、しばらくオ、ヤ、ス、ミ、します。