せせらぎの小道:忘れたくない

本を読んでいて”忘れたくない”ということが沢山出てきます。それをここにメモしているわけです。自分が何を考えているのかが分かりそうで面白がっています。”あやしゅうこそものくるおしけれ”という気持ちなのです。「俺はこんなに偉い本を読んでいるんだぞー」と言っているのではないので悪しからず。

 

「植物考」つづき。

 20世紀は、人間という生命体が、大気や土壌や海洋にさえ大きな作用を与えうる存在になった時代だった。工場の煙突から排気されるガスは大気を黒く染め、工場の廃液は海を茶色く染めた。それだけではなく、フォスゲンは人間の呼吸を止め、マスタードガスは、皮膚をただれさせることで皮膚呼吸機能を著しく低下させ、シアン化水素は血液の酸素運搬能力の働きを阻害した。毒ガスの転用である農薬は、農業従事者の健康をむしばみ、土壌内生物の活動を弱めてきた。

 私たちが植物として浸っている世界は汚染されているものと見なされ、マスク、フィルター、空気清浄機、浄水器やエアコンによって何とかその環境を保とうとしている。鉄筋コンクリートとガラスとマスクによって汚染と事故を区切ろうとしている。

 けれども、食べ物は鉄筋コンクリートの隙間を通って私たちの胃腸に運ばれ、空気も換気扇を通って運ばれてくる。だから、農薬から逃れた有機農産物と、空気のきれいな場所にある家やマンションの部屋と、ミネラルをーターが買いあさられる。更にこれらは、肉体的害の多い労働によってつくられた食べ物とそれを食べる罪の意識から逃れ、じっくりと浸れる世界を用意してくれる。浸るには、お金が必要であり、浸ることは、もはや、ビジネスになりそれにしても、世界に浸ることがお金でしか確保できない時代は、何と厳しい時代だろうか。それにしても、世界に浸ることがお金でしか確保できない時代は、何と厳しい時代だろうか。