せせらぎの小道:猪苗代城(亀ヶ城)

桜の季節を避け新緑の頃、猪苗代城祉を観た。

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大手口:枡形虎口。穴太積(あのうずみ)の石垣。

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本丸跡を見上げる。

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北に磐梯山、南に猪苗代湖、東に川桁連峰を観る丘の上に建つ城である。

猪苗代城は別名亀ヶ城ともいわれる。

 

奥州合戦源頼朝対奥州藤原)によって会津を与えられた相模国御家人佐原義連の孫:経連が鎌倉時代初期に築いたといわれている。経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭として一帯を治めていた。その過程において築城されたとみられている。

会津盆地を治めていた蘆名氏も佐原義連の血統で、猪苗代氏とは同族である。猪苗代氏は本家・蘆名氏に対しては、反逆と従属を繰り返し、最終的には、天正17年(1589年)の摺上原(すりかみはら)の戦いの直前に、当時の当主・猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、蘆名氏を滅亡に追い込んだ。

豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。

 

その後、会津領主は蒲生氏郷上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と続くが猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、それぞれの家中の有力家臣が城代として置かれた。

寛永20年(1643年)に保科正之会津藩主となると、猪苗代城には城代が置かれ、正之の死後はその墓所(正之は城の北、土津神社に葬られた)の守護という重要な役目も担った。土津神社:はにつじんじゃ。

 

慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで西軍が東軍を破って会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権太夫は城を焼き払って会津へ撤退し、建物は全て失われた。

 

明治38年(1905年)日露戦争の戦勝記念として町内の有志が桜を植樹し、その後、公園として整備された。

野口英世(清作)は幼少時代に城跡でたびたび友人と遊んでいたという。清作の父「佐代助」の実家「小桧山家」は猪苗代氏の子孫にあたるため、清作も猪苗代氏の子孫ということになる。

猪苗代城祉の一角:本丸を望む位置に野口英世の首像(ブロンズ)が鎮座している。アメリカから寄贈されたものという。

 

野口の一生を思うとき、この人の具現した明治人気質を胸が痛むほど感じる。学校を卒業するときに歌う「仰げば尊し」、その中で「・・蛍の灯火つむ白雪・・身を立て名をあげやよ励めよ・・」こう歌われる。野口は委細を一切捨てこの事に邁進した。その姿は痛々しいほどだ。

こう私が思うのは明治人気質が造り上げた偉人伝に依るのかも知れない。逆境にもめげず、苦学して、名をあげて・・・借金などは踏み倒して、婚約などは不履行にして、貪るように名声を求める、・・まあ良いか!

野口の科学する心意気は胸を打つ。

 

私はなぜか「蛍雪時代」という言葉が好きだ。余計なことは一切かまわず「学ぶ」・三昧境(ざんまいきょう)に浸る、そんなことが出来たときだ。

しかし野口を観るとき「あんた動機は何なのよ」(あんたあのこのなんなのよ:宇崎竜童)と言って微苦笑する時がある。

ちなみにこの微苦笑という言葉は久米正雄の造語らしい。私は夏目漱石の造語と思っていたのだが。

盛岡の不来方(こずかた)城に遊び「空に吸われし十五のこころ」と詠った石川啄木君とは少し趣が違うとも見えるが、野口も石川も同種同族とみて矛盾なし。

 

戊辰戦争後、猪苗代城祉は荒廃したままであったが、明治38年(1905年)日露戦争の戦勝記念として町内の有志が桜を植えた。その後、公園として整備され、現在でも、春になると花見客で大いに賑わう。