せせらぎの小道・大正デモクラシー

f:id:kuwanomura:20200912100554j:plain

2020.9.12.(土)福島民友。福島医大会津医療センター(会津若松市)に入院していた患者、同センターに勤務する職員3名がコロナウイルスに感染したと報じています。同センターは感染症指定医療機関で、新型コロナの感染者が入院し、治療を受けている。

 

一般診療と感染症診療を分離している医療機関ですが、この例は一般診療部門で発生したものと推測します。同センターは感染部門と一般部門が分離されているので、感染部門から一般部門へ拡がったと云うことは考えられないと云うことです。

最近は私たちもマスク、ガウン、手袋などを装着して日常の業務に当たるわけですが、夏場は大変。猛暑でしたから。又、対話というものがマスクをしているせいで完全に行かない。見つめ合う対話も意味があることではありますが、不便。スタッフの勧めがありフェイスシールド(めがね型)を使ってみようと思う。ただ眼鏡の装着を繰り返しながら細かい文字を書かなくてはならない体になってしまった身としては更に不便さがますことになるので・・・。

又々石井さんや七海さんの頭が痛くなりそうだ。

私たちの施設では感染部門と一般部門を、職員を含めて、完全に分離することは不可能です。どんなに頑張っても不可能です。前もって言い訳をしてみても始まらないのだが。

 

大正デモクラシー

 日本で1910年代から1920年代にかけて(概ね大正年間)に起こった、政治・社会・文化の各方面における民主主義の発展、自由主義的な運動、思潮、風潮の総称。信夫清三郎「大正デモクラシー史」(1954年)がこの言葉の初出である。

中條ユリ、中條百合子達はこの時代を進んでいるのだが、その頭の中には「大正デモクラシー」という言葉は存在していない。

 

1914年(大正3年)8月23日(日曜)

 独逸(ドイツ)に向かって宣戦詔勅が発せられた。なんとなく興奮した気持ちになる。争われないものだ。神棚に御燈明をあげる、美しい。午後から具合がわるくて床に入った。二時間ほど眠ったので夜辛い目に会った。蚤がたまらなくせめる。夜に入って雨が降りだす。「水の出る雨だ」こんな事を云って居た。本を読むことを止められた。情けなかった。

1914年9月2日(水曜)

 安積へ出かけた。(この時は未だ安積郡桑野村)。道ちゃんがなかなか来なかったんで待ち遠い様なせかせかしたいやな気持ちになった。ドンタクをかしてもらう。出水のあとの家がたおれたり畑が水びたりになって居るのを破られた鉄橋の上から見る。恐ろしい。目がうるむ様な気がする。夏の三等の旅はうんざりする。

1914年9月10日(木曜)

 夜東京から華子の病気が大変悪いと云う電報が来た。祖母様は止めるけれど明日の一番で立とう。いそがしく着物をまとめたりカバンを詰めたりする。軽い不安が絶えず身をおそう。死ぬだろうとか何とか云う事は今思われない。そう云う経験のない私はやたらにあわてる。気がせかせかして何も手につかない。

1914年9月11日(金曜)雨

 しとしとと秋の小雨のする中に 逝きし我妹の 幼き御霊よ 紅友禅の衣かなしや

被われし身の冷かなれば・・・ 事々に無く遺され姉の心ーー。 失ひし宝もどさんすべもがな かえがたき宝失へる哀れなる我心。

 

*大正という時代に興味がある。明治維新西南戦争日清戦争日露戦争第一次世界大戦、ほとんど10年ごとに戦争を経験してきた日本人である。中條百合子はこの中で多感な時代を過ごし、ニーチェトルストイドストエフスキー夏目漱石、他沢山の文学作品に触れ、本を読まなかった日があるとそれを悔やんだりしながら、「夏目さんの吾輩は・・は皮相的、現在の夏目さんは全く違う」などと言ってみたりしている。

大正の後期に「伸子」を世に出すわけですが、そこには「貧しき人々の群」から何段階もの脱皮を重ねた中條百合子が見られます。

この時代の各界の人々の航跡は後生に与える影響が極めて大である、と思うのでこの時代に興味がある。大変にある。

 

*大正時代とその文学・メモ

 初期には夏目漱石森鷗外の二大文豪が大作を発表している。が、夏目漱石は大正五年(百合子デビューの年)、鷗外は大正11年に世を去る。

1914年ヨーロッパで世界大戦勃発。日本経済は異常な好景気であったが、一方国内の労働者の生活は著しく困窮に陥る。

民主主義的風潮が広まり吉野作造民本主義を唱える。

文学において。人道主義の作品(白樺派志賀直哉武者小路実篤有島武郎・有島生馬)、耽美派永井荷風谷崎潤一郎)、新思潮派(芥川龍之介)・・・。

私小説・心境小説、プロレタリア文学小林多喜二・中條百合子)など。

 

プロレタリア文学は政府の厳しい弾圧もあり、昭和初期には姿を消す。