せせらぎの小道、洪水、コレラ

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記事は2020年9月11日、毎日新聞

前回④で行政との任務分担について述べた。保健所所長さんからはメッセージを頂いている。「クラスター対策は全て行政が担当します」ということです。「公的権力を行使しなければならない場面が数多くあるし、それは民間では対応しきれない。民間にご協力頂きたいのは掛かりつけの患者さんへの対応です」。協力したい。

「住民の自治」を尊重する医療機関なので、協力・協同の考え方を十分に生かしたいところです。これはコロナ対策を越してインフルエンザ対策にも連動します。

 

中條百合子は執筆活動にいそがしくなった。

 

1916年8月1日(火曜)

 そこいら中が洪水で大変だと云うので、午後から英男を連れて出かけて行く。車に乗って(人力車に乗って)、ずーっと田端の方から三河島の方まで行く。ずいぶん気の毒なものである。いやな臭いと殺風景な男女がはさまって居るだけ漸々だと云うようにしてウザウザ動いて居る。丁度千住に入ろうとした所で、向うから子供がかけて来て、ハッと思う間もなく車屋の足の間から向うへぬけてしまった。そして火のついたように泣き立てる。額からタラタラ血が出て居るが、まだ泥水の一杯あるなかに八月の日がムカムカとてる下に、どんなにいやに見えたことか、車屋は一円取られた。

大橋まで行って見る。大きないかりが下りて鳶のものや巡査が立ち、ヒトも大勢行ったり来たりして場末の特殊などよめきを作って居る。

 

1916年8月2日(水曜)

 「戦争と平和」を沢山よむ。そして感服し感激し、驚かされた。ますますトルストイは偉く思われて来るばかりである。あれ丈にどうして書けたのだろう?同じ人間とは云え、私のどこかにあれ丈の力がこもって居るだろうか?そう思うと、この間の日曜附録にあった武者小路さんの言葉、ー「一つかべにぶつかるとそれを通って又次の壁を見いだす人間にほんとうに自分がなれるであろうか疑問が苦しく起る。

 

1916年8月3日(木曜)

 大変にあつい。層雲が彼方此方に漂って、はげしい日差しが凋んだ月見草に暑苦しくよどんで居る。「世界の一隅で」を書き出したけれども気がのらない。どうしてもよく書けないので一二枚でやめにする。こんどの洪水で得た材なので、ほどが立ってしまうと弱くなりそうなので「小さき憂悶者」の先へ廻す。学校が始まるまでには、この二つ丈はまとめなければならない。

 

*百合子は今、日本女子大学英文科予科一年生。入学早々「天才少女」になってしまったわけです。依頼原稿も数が多くなりました。

 

*郡山市開成2丁目に中條政恒さんが住んでいた家がある。そこには少し前まで常松さんという方が住んでいた。そこの長男の俊秀君は安積高校同級生というよしみがあって、何度か家にお邪魔して、何人かで怪気炎を上げた。

怪気炎を上げたその部屋というのが実は中條ユリさんの勉強部屋だったりもした。

夏休みに中條ユリさんは東京から郡山まで汽車でやって来る。駅からは人力車に乗ってさくら通りを西に進み中條邸に到着するわけです。

 

*常松君は東大理科を出て東海村日本原子力開発機構で重要な役割を果たしていた。「私は日本資本主義と心中するつもりはない」「このエネルギーを使わないでいる手はない」「私の目の黒いうち核廃棄物の合理的な管理方法を完成させたい、ガラス固化法を開発中です」「文殊が完成すれば半永久的に・・・」。

2010年8月お盆、定年を迎えたら郡山に帰ってきてお袋の運転手でもやりたい、などと言いながら駅前で二人で飲んだ。「郡山に帰ると代議士になれとか、〇〇になれとか言われるけど」「それは絶対やらない」という結論を得て、翌日帰京。

上野駅で激烈な腹痛に見舞われ救急搬送。腹部大動脈裂にて緊急手術。一時回復したものの永眠。現在お母さんのトシさんは大槻の介護施設で療養中です。

*中條邸は現在は常松さんの家ではなくなっている。気軽に立ち寄って怪気炎を上げることはできない。

 

1916年8月6日(日曜)

 午前遅くなってから坪内先生へ行く。芝居の話が出て面白かった。日本の女優は好くならない、何故なら比較的鼻が低いので横がおが美しくないから。木下八百子の噂、つまり芸者になる女、須磨子は只単に度きょうがあると云えば〇えるのだったそうだ。

 

1916年8月27日(日曜)

 今日はしきりに製作欲が動いて「彼方に遠く」を書き出す。メランコリーに沈んだ様な筆致で書けそうである。今月中には書き上げたい。(*31日に発行されている)

コレラが段々拡がって来る。昔モッコに入れて川へながした「ころり」の残酷な死に方は今ものがれられない。

 

1916年8月29日(火曜)

 午後からなんだか気分がわるくてたまらない。どうしたのかと思って床に居ると、旧にはきけがついて、もどしてしまった。胸の底から出されるような涙にかすんだ目を透して、窓から青い木の葉が妙にキラキラして居る。コレラが盛なのですっかり気になってくる。

夜細井氏に見てもらう。何でもないそうだがちょっと寒気がしたりしたので、又一昨年のようになりはしまいかと思うと、たまらなく不安になる。

 

*日記を追っていくと「ああそうだったのか」という発見が次々と出てきて止まるところを探せなくなる。こういう中でも百合子は「猪苗代湖」へ避暑に出かけたり、安積(くわのむら)へ出かけたりもしている。このことを「安積に行く」と記している。

この頃からすでに海外留学のことを考えている。

1918年、父と共にアメリカに遊学、翌年コロンビア大学聴講生となる。