せせらぎの小道:人権

2021年9月5日・母成峠界隈

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トマトと見間違うようなハマナスの実。

 

医療の分野では、ここ30年、人権に関する言葉が多くなってきた。「生まれながらにして基本的人権を有する」というふうに使われるのだが、この人権を承認する社会、あるいは国家(今は国民国家)がなければ画に描いた餅になる。

生存権という言葉に置き換えてみよう。独りだけで主張してもそれを承認する社会がないとただの文章ということにならないか?その主張を否定する人達ばかりの中では、主張する方の分が悪い。

多くの人が承認している社会でも、「生存のために個人が何もしなければ」他人様が何かをしてくれるということはない。

概してこの権利というものは「私はここで生きるから邪魔をしないで欲しい」ということではあるまいか。「その代わりあなた様の生存にも邪魔をしません」。

「ほっとけ俺の人生だ」というロゴの入ったTシャツを来ている人がいた。「ハイ邪魔をしませんよ、私の生存も脅かさないでください」。

 

保険診療の行われている医療の現場ではそうはいかない。「あなたの権利を守りますよ」というサービス産業だからだ。時にはそれを押しつけがましいというふうに感じてくれる人もいる。また時にはサービスが足りないと感じてくれる人もいる。

脅迫するという手段に訴えてサービスを強要する人もいる。

それらは、社会の構成メンバーが人権というものに対する尺度(物差し)にしているものが、どういうものか、ということで決まってくるように思う。

私たちの今の社会は、人権といものの本当の意味を知らないのではあるまいか。何せ外国から輸入された概念に日本語を当てはめただけなのだから。

 

追。パラリンピックを見た。懸命に人権を主張している、人間であることを主張している、真摯な人の姿だと。私の目には映りました。