せせらぎの小道:日本語の混乱

この季節、この蝶は何をしようとしているのだろうかと思った。この場所に朝早く2~3日に亘って住み着いていた様子を確認した。悪天候のもとで動きが鈍そうでしたが。

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郡山看護専門学校看護学科の講義が始まった。現在使われている医療用語のことで自分の頭が混乱している。漢字に変換してあろうが、そのままカタカナで表現してあろうが、厳密に意味を考えるとなかなか他人に正確に伝えられないことに気づく。

それらはここ30年の間に西ヨーロッパ、アメリカ・・から輸入されてきた言葉です。先方では医療用語として使われてはいない言葉が多い。それをむりむり医療用語として使っているところに混乱がある。収まるまで時間がかかりそうだ。

 

CAREという言葉がある。セルフケア(自己管理)というふうに翻訳されて医療用語として使われている。その善し悪しを論じているのではない。混乱のもとを確認したいだけです。

careは羊飼い達が羊を管理?している様を表現しているらしい。転じてキリスト教社会では、迷える子羊たちを教会の牧師(羊飼い)さんが導いている様を現しているようだ。これを医療用語として使っているものだから、そこに混乱のもとがある。

それでも、他に適切な言葉が見つからないこともあり、この言葉が日本語として定着し、欧米の人達が想像する言葉の意味とは全く違った姿で定着するのだが、私たちが矛盾を感じなくなるには時間がかかるということです。

そういう言葉が医療界に限らず、各分野で見られる時代ですから、現在の若者達に物事を講ずる時にある種の違和感を覚えるのだろう。

こういう感覚は、私たちの先達が私たちに物事を伝えようとしたときにも感じたに違いない。

言語の世界におこっている異変は、私の頭に起こっている異変だ。

ハイデルベルグの郊外で教会で開かれたファミリーコンサートを観た。その講堂の両側には個人用の懺悔室?が幾つも用意されていました。

「もし自分がその部屋に入ったなら一生涯、出てこれないのではないかしら?」・・と思いました。