せせらぎの小道:実感古郡山湖

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*2020年10月4日(日)ローレルバレーCC.の高台から郡山市の方向を写す。曇り空であいにくですが黄金色になった部分を湖とみれば古郡山湖を連想できなくもない。何せ10万年前の姿ですので想像しなさいと言われても無理な話ではありますが。

学術的に検証してみたい方のためには参考書がございます。

 

日本の地形3 東北 小池一之、鎮西清高、宮城豊彦、編。東京大学出版会

阿武隈川中流域の地形(短報) 小池一之(駒澤大学地理学教室)1965.

 

*どうも気になることがあると頭から離れなくなることが度々あって古郡山湖もその内のひとつです。

*最近古墳をめぐりいろんな景色を見たり古代の生活に思いを寄せることが流行っているらしい。これを「憤活」というそうです。会津は「磐梯山が守ってくれている」「会津は伊佐須美様が守ってくれている」という話もこの辺から出てくる。古代の話である。

*夏場に会津の大塚山古墳にいった。この会津の地をいったいどういう人達が開発し治めていただろうか?等と思いながら県立博物館にまで足を伸ばした。鶴ヶ城の敷地内に博物館は建っている。

 

*古代は兎も角として、近世。

 10月4日(日)福島民友 編集日記から

 430年前、松坂(三重県)の領主だった蒲生氏郷会津に入った。

当時会津は黒川と呼ばれていた。4世紀にわたり会津を支配した蘆名氏を伊達政宗が破り会津を支配した。しかし豊臣秀吉に疎まれた政宗会津を没収されてしまう。

秀吉は当初、明智光秀の娘、玉子(ガラシャ)を妻にした細川忠興に黒川を与えようとしたが、忠興は辞退した。「奥州の要である黒川を守る自信がない(政宗が怖い)」。

蒲生氏郷も当初は同じ理由で断ったが、秀吉の機嫌を損ねることを恐れて拝領した。

黒川城で家臣達に「都に近い西国なら武功も将来も望めるが、この辺境の地では」と恨み節を吐いたと。氏郷は5年間会津で過ごした。政宗への警戒、朝鮮出兵の際の九州への出陣、等々。

それでも郷里から漆器や酒造りの職人を呼び寄せ、現在に伝わる産業を興している。

やがて会津は上杉による統治を受ける。

編集日記氏はこのように結ぶ。「氏郷が会津に残した功績は数多いが、どのような境遇でも最善を尽くすことの大切さを教えてくれている」。

 

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*今最も気になることがコロナ感染。4人の感染者の中で50代男性が重症、他の3人は軽症で、何れも入院中という。

私らに採れる効果的な対策は、自分が感染しないこと、他人に移さないこと、標準予防策を実行すること、でしかない。それですらなかなかに大変なことです。