せせらぎの小道:宇奈己呂和気神社(うなころわけじんじゃ)

神社の物語は地方色が豊かで(何が中央かというと、考えなければならないが)土地の人々と密着したものがあり楽しい。時にはあっとおどろく様な夢物語があったりもする。気にしない人には面白くも何ともないものなのだが、面白く感じる特異な性格をしているのでしょう、私は。

宇奈己呂和気神社(うなころわけじんじゃ)

所在地:郡山市三穂田町八幡字上ノ台76

主祭神瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)

別名:相殿八幡神社   札所等:安積三十三郷総社

 

三穂田町から見る額取山連峰は殊の外美しい。連峰の中のひとつ、高籏山は八幡太郎義家が旗揚げしたという伝説を持つ。宇奈己呂和気神社(うなころわけじんじゃ)は最初は高籏山山頂にあり、延暦3年(784年)高籏山より現在の地に遷座した。

f:id:kuwanomura:20200921095538j:plain

延喜式名神大社 宇奈己呂和氣神社 2020年9月17日 撮影

f:id:kuwanomura:20200921100202j:plain

大正十三年十二月建立 社司 大原康直 敬書

 

休題 

f:id:kuwanomura:20200921103409j:plain

突拍子もないことと思いますが、今後、私たちがインフルエンザと呼ぶ感染症は、今世界的に流行している新型コロナ感染症(COVID-19感染症)を指すことになるのではあるまいか。今までのウイルスは何処かに潜んでしまうのでは?

 

再開 : フリー百科事典Wikipedia より

陸奥国蝦夷征伐の物語。(大和朝廷

天応元年(781年)朝廷は陸奥出羽按察使(あんさつし、あぜち)として藤原小黒麿を下向させる。翌年の延暦元年(782年)桓武天皇大伴家持(おおとものやかもち)を陸奥出羽按察使・鎮守府将軍に任命して下向させた。

家持は高籏山の山頂に登り潔斎し祈念すると、神霊が顕現し、安積の山々・八ツ旗山に奇瑞(きずい)を現したという。家持は平定を成し遂げた後、神恩に感謝し、高籏山の山頂に社殿を建立した。

社殿は時を経て荒廃したので延暦3年(784年)に現在の鎮座地である山崎へと遷座し、相殿神として八幡大神誉田別命)を合祭した。

 

社伝:欽明天皇11年(550年?)、安積郡の高籏山山頂に瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)が顕現した。*神道大祓詞に登場する神。古事記日本書紀には記されていない神名。

瀬織津比売命は伊耶那岐命イザナギノミコト)が阿波岐原で禊ぎ祓いした祭、黄泉(よみ)で受けた穢れより産まれた八十禍津日命(ヤソマガツヒノミコト)と同神で、又瀬織津比売命は、伊勢神宮荒祭宮(あらまつりのみや)や廣田神社で祀られている「天照大御神荒御霊(あまてらすおおみかみあらみたま)」であり、世の中の穢れ、禍事を浄める神としている。瀬織津比売命の神助により蝦夷平定が成し遂げられる様にと祈願を込めて祭祀されている。

 

概史:鎌倉時代に入り、安積郡の地頭として工藤祐経(くどうすけつね)が配置され、庶子である安積祐長(あさかすけなが)を安積へと派遣した。(*安積伊東氏)。

工藤祐経伊豆国三嶋大社伊豆神社箱根神社を安積郡に勧請し、宇奈己呂和気神社の境内末社として祀り(遠慮しながら)民衆の安定化と信仰の定着をはかった。

応永6年(1399年)足利満兼陸奥・出羽支配のため足利満直(篠川御所)・足利満貞(稲村御所)を下した際にも同様の政策が採られた。

足利満直が陸奥国安積郡篠川に下向した際は、由緒ある宇奈己呂和気神社の再興を志し、応永9年(1402年)社殿と境内を整備し、鎌倉より従い来た家来である大原康信を神官として任命し社務を執り行わせた。現在も大原家が宮司社家として奉斎している。

*冒頭の写真を参照されたい

 

高籏山から現在の鎮座値に遷座した時に八幡大神相殿神として合祀して以来、宇奈己呂和気神社は「八幡神社」、江戸時代には「相殿八幡神社」と呼ばれていた。八幡様は武神であるから近隣の武将からも篤く崇敬を集めていた。領主であった伊東高行・蘆名盛高・蘆名盛氏蒲生氏郷社領二百石の寄進状や、上杉景勝の意が示された慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い前の祈願文、が残されている。

明治15年(1882年)郷社に指定された。