芭蕉通り、いま

桑野村から少しの間離れて郡山まち中へ。

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この芭蕉小路は私有地です。が、ご厚意により通過自由。陣屋通りを経て郡山駅前へ出ます。芭蕉の「芭」の文字の向かって左上の白壁にフックが出ています。確か以前はそこに「芭蕉通り」という街灯が付いていたように思う。

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駅前大通の方に向かう。大通りを越えて向こうに見えるのは「今泉女子専門学園」。昭和通(新国道)の交差点を渡って今泉女子専門学園の正面へ。

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郡山市指定重要文化財はちゃんとお許しを得てから拝見しましょう。今日は暑いからパス。

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「ヘアサロン髪屋」というのが何とも風情がある。⑤大町道標に向かう。

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向かって右。奥州街道。少し進んだところをさらに右に折れると三春街道。向かって左會津街道。芭蕉さん一行は右奥州街道を日和田方面へ向かって進んだわけです。

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二基の道標を認めます。向かって右の道標の説明。道標由緒。

 従是三春道(これよりみはるどう)石碑一基。この石碑はここから北へ三十八米の下桝形(ますがた。宿場の木戸)に文政八年(一八二五年)(郡山宿上町人口 一、八八八名、下町人口 一、二九〇名 合計 三、一七八名)に建てられました。郡山から三春への道は、桝形から阿久津の渡し、小泉 舞木を経る岩城街道と呼ばれる道でした。

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「左會津街道、右奥州街道」石碑一基。この石碑は大正三年(一、九一四年)郡山町人口 二二、五〇四名)渡邉藤吉氏によって、現在地に立てられました。

会津への道は明治十九年(一、八八六年)に新設され ここから富田、安子ヶ島を経て越後街道に出る道です。

その後郡山市の発展がすすみ、この道標二基は、赤城小学校に移転されておりました。

昭和五十九年九月元日(一九八四年 人口 二二九、一二六名)郡山市制施行六十周年を記念して、旧蹟に再建したものです。

昭和五十九年十一月三日、郡山市大町商店街振興組合

 

右手前方 : ビックアイ

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さらに石碑の裏側に回り見ると。「日露大海戦十周年記念 大正三年二月廿八日 建之

〇〇〇 渡邉藤吉」と読める。読めない部分は伊藤 和 さんか藤村さんにでも聞こうかと思う。この碑文から柳沼恒五郎(五代目)さんが思い出される。

 

*2020年9月26日 追加編集

 知り合いの郷田みほさんが判読できなかった部分を調べてくれた。「日露大海戦十周年記念 大正三年五月廿八日 建立 米穀商 渡邉藤吉」でした。

郡山市伝統文化遺産⑤大町道標の建立に郡山町のお米屋さんの渡邉さんが頑張りました、ということで、これこそ郡山の商人さんと心から喝采しました。

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下の石碑に道標由緒が記録されている。