せせらぎの小道:火葬場

2009年3月、医療生協の見学旅行でネパールの医療状況を視察した。3月末の小雨模様の時インダス川の上流の上流にあたるところで火葬の模様を対岸から見学させてもらった。

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写真右奥の民家風の建物は、人々が人生の最後を迎える施設。勿論、医療施設ではない。マザーテレサさんの療養施設を想像していただくと良い。

そこで亡くなった人が川の畔の火葬台の上で火葬に付される訳です。貧しい遺族は火葬のための充分な薪を買うことが出来ないので、完全な火葬とはなっていないようです。

とにもかくにも火葬が終了すると、完全でも不完全でも遺体は川に捨てられる。そしてインダス川を下っていくわけです。川面には、その時は乾季で水量が少なく、遺体がうち捨てられたの如く“存在”していました。遺族が沢山の薪が買えると骨だけになるのですが、そうでない場合は・・・・。

水量が多いときは全てが水に流されるということですが、水量の少ないこの季節は異様な光景を観ることになりました。

それでも人々は火葬がすむと、その場で質素な振る舞いをしたり受けたりして、それぞれの現実に戻るということでした。ヒンドゥー教の様式に則っての火葬のようです。

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写真の並びは上下が逆になっています。一番下が着火したとき。真ん中が盛んに燃えているとき、一番上が終了間際です。向かって左側の遺体はこれから火葬される遺体です。

乾季とは言え小雨模様でしたので曇り空の写真となる。対岸から望遠してます。

人の一生というものを火葬の火を見ながら考えていた次第です。

 

一番の繁華街に行く。

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乾季ですからほこりっぽいです。人力車がタクシー代わりです。ハトも牛ものんびりしていて特有の臭いがあります。

インダス川ガンジス川の間違いか?

チベットの鳥葬はNHK?のフィルムで見たような気がする。

せせらぎの小道:大量生産.大量消費・大量廃棄

Kawakiyo Project 田中正造とその郷土、Wikipedia宇井純・公害原論、等を参考にしながら「森永ヒ素ミルク中毒事件」などを詳細に渡って観る。被害者の心情、加害者の心情を脇に置いて、当時の社会経済状況と政権担当側の政策のみに絞って考えていくと、巨視的な見方が出来て、92年地球サミットで出された「環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言」に行き当たります。

開発というと土木工事が頭に浮かぶのだが、そうではなく、ものつくりの方法、生産様式ということを思い浮かべてほしいです。その中には食品、薬品なども入ってくるので。

森永ヒ素ミルク中毒事件を観るとき、全てが・全ての人が、大量生産・大量消費・大量廃棄という社会経済構造の犠牲者だと思うのです。

このミルクのキャッチフレーズが「頭の良い子に育てましょう」ということでしたので、母乳を捨ててまでこのミルクを自分の子供に与えた「お母さん方」の気持ちを思うと、何ともやりきれない、どう表現したら良いか解らない。

死者130人、患者12,131人。

 

リオ宣言が基本となって出来たSDGsは、大変な犠牲を体験した、人類の切なる願いだと改めて思っています。

 

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写真提供。アルピニスト・田中 直 さん。この環境があるからこそ、この環境が続くからこそ・・

せせらぎの小道:構造災害

1960~1980年代のつづきです。

世界中の公害、薬害を観たわけではない。特にイギリスにおける産業革命以後の公害・薬害、日本における明治維新以後の公害・薬害に関心があった。宇井 純 氏の「公害原論」は、「それらがある種の社会経済構造に起因している」、事を明確に示していた。

 1989年にベルリンの壁が崩壊し、続いてソヴィエト連邦の解体があった。東西冷戦構造とアメリカ、ソ連の対立は永遠に続くものと思っていた頭が混乱したのを覚えている。共産主義か資本主義かという思想の対立が何処かに飛んで行ってしまったようにも感じた。

それ以前から、地球環境問題がひとつの論調として叫ばれていた。このままの乱開発が進んでいくと地球が危ないという。地球という星はどんな状態になろうとも、生物が住めなくなったとしても、存在し続けていくのだから、地球が危ないというのは人類が危ないという事なのだと理解できる。

 

1992年、ブラジル、リオデジャネイロにおいて地球サミットが国連主催で開催された。「環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言」が出される。

大量生産・大量消費・大量廃棄、という社会経済構造を考え直して「持続可能な」社会経済構造にしなければ人類が危ない・・という概念が提唱されたわけだ。

ここで初めて、私は頭の中で、公害・薬害はこの社会経済構造に起因していると、整理することが出来た。(恥ずかしながら)。

2011年3月11日、東日本大震災原発事故、を構造災害と理解して、「核害」という言葉を使った金井先生の思想に賛同した。世界の原子力災害に目が開けた。日本の公害・薬害、世界の公害・薬害、が見えてきて、そして沖縄も視野に入った。

今、地球温暖化は地球規模の公害であり、コロナ感染症はグローバリゼーションの「つけ」であり構造災害と理解している。

類似した感染症はこれからも「態」を変えて発生してくると考えられる。

 

環境危機の中で、私には、大変に不気味な問題として見えるものがある。「種の絶滅」です。

未だ全体像をつかめていない昆虫の世界にも絶滅種が知られている。一見、自分たちの生活には関係ないように思っている動物や植物の中に絶滅種が有ることを多くの研究者が伝えている。

こういうことというのは、私たちが「これは大変なことだ」と思う時は、すでに私たちの生活が脅かされているときのように思う。地球が危ないのではない、人類が危ないのだと実感する前に何かをせねば。

SDGsは人類の課題としてもあるが、個人の課題としてもあり、職場の課題としてもある。

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石筵、スタジオZAZA、小動物の足跡は「狐キツネ」ということです。かけがえのない友人の足跡とみるか、飼っている「鶏ニワトリ」の敵と観るか?

せせらぎの小道:人権

1960~1980年代のつづきです。

語るまでもないことなのだが日本国憲法の3本柱は、①民主主義、②平和主義、③人権主義、です。アメリカから押しつけられた憲法であるとしていやがる人もいるのですが、もし日本が先の大戦戦勝国となった場合、大日本帝国憲法を世界中に押しつけ世界のリーダーとなれただろうか。戦争を始める前からそれは破綻していたのでは?

この憲法は発布された当時も今も日本人の悲願が結集したものであると思うし、国の指導者達もほっとしているところがあるのでは?

私はアメリカという国をありがたい国だとは思ってはいないし、矛盾だらけの恐ろしい国だと思う気持ちの方が強いけど。

 

「人権」ですが、私はこの地で医療生活協同組合とのおつきあいを始めてから生活の一部として考えるようになったことは確かなことです。

医療生協との関わりから人権そしてSDGs

 

1957年 日本生協連総会で医療部会結成を決定

1988年 医療部会総会で第1次5カ年計画確定

1991年 医療部会総会で「医療生協の患者の権利章典」確定

1992年 国際協同組合連合(ICA)第30回大会 於 東京

東京で開催されたICA世界大会で、日本生活協同組合連合会医療部会は「患者の権利章典」を世界に向けて発信し、高らかに「自らの人権」を謳った訳です。

丁度この年ブラジル・リオデジャネイロにおいて「地球サミット」が開催されて、大量生産・大量消費・大量廃棄、の社会経済構造を批判的に捉えて、Sustainable Development という概念が提唱され賛同を得ています。現在でいうところのSDGsの概念です。世界の子供達の人権宣言も大きく影響しています。

医療生協の患者の権利章典は日本医療界の「金字塔」であります。

 

1995年9月23日 Manchester(UK) において ICAは協同組合アイデンテイテーに関する声明を採択しました。第31回世界大会。マンチェスター大会。

その第7原則

 地域社会への関与 : 協同組合は、組合員が承認する政策に従って、地域社会の持続可能な発展のために活動する。

7th PRINCIPLE

 While focusing on member needs, co-operatives work for the sustainable development of their communities through policies accepted by their members.

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写真提供 アルピニスト 田中 直 さん。

Our Common Earth かけがえのない地球と多様性が尊重される社会と・・・・

せせらぎの小道:無胃村

標題は無医村の間違いではない。1960~1980年代のつづきです。

医師免許を取得して(約50年前)研修医となった頃、「胃がん胃潰瘍が悪性化したものである」あるいは「胃がんの発生母地は胃潰瘍にある」という学説(あるいは通説)が医療界にあった。あえて医学界とはしない。

そういう学説のもとで、治癒が遅れている胃潰瘍や再発を繰り返す胃潰瘍の患者さんに盛んに胃切除術が施された。加えて十二指腸潰瘍という疾患もその中に組み込まれてしまった。(十二指腸がんは極めて希)。内科医も外科医もその診断と治療に邁進したわけで、その中の一人に私も入る。

かくして「胃腸専門病院」という単科病院の出現となり、「無胃村」という現象が出現した。村というのは「原子力村」と同じように必ずしも過疎地域を表す言葉ではない。

 

 胃潰瘍というものを長期に亘って観察し、それを動的に捉え「急性期、治癒期、瘢痕期」があり、そしてそれが繰り返され、必ずしも癌化するわけではないということを公表した学者がいた。(崎田教授・筑波大学)。

胃潰瘍の瘢痕像をレントゲン写真を撮って追跡し、積極的に胃潰瘍胃潰瘍と診断し、胃がん胃がんと診断しようとした学者もいた。(五十嵐勤先生・福島県医大、草壁彦夫教授・順天堂大学)。

五ノ井哲郎先生(福島県医大)は「日本人の胃潰瘍」という著書で、胃潰瘍症の疫学を公表し、胃潰瘍症の病態に鋭く迫った。

 

勿論、発がんに関しての研究も数多く行われていて、白壁先生は多くの協力者と共に「早期胃がんの姿」を世界に向かって提示し、それが世界的に認められ、現在は、いろんな診断器具の発達も加わり、胃がん胃がん胃潰瘍胃潰瘍、と積極的に診断できるドクター達が増えてきた。

「無胃村」という言葉も死語となってきました。この言葉は国語の辞書には無い。

 

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写真提供:ソロキャンパー石井さん。

薔薇の木に薔薇の花が咲く。なんの不思議もない?訳ですが、花の整合性(生物学的整合性)を確認し記録することで植物としての分類が成立し、世界中の人がその美しさに納得する。あるいは美しいと思ったからその謎に迫った?

 

五十嵐 勤 先生はその著書で、積極的に胃潰瘍瘢痕を胃潰瘍瘢痕と診断できる所見を記述している。「ロゼット模様」。この模様を写し、胃がんを除外したわけだ。

「胃の粘膜面が海よりも広い無限の広さを持つ世界に見えて、私は何時も呆然としてしまう」・・あるとき、先生がお酒を飲みながら話してくれた。無類の酒豪でした。

 

赤面しつつ訂正

 草壁彦夫→白壁彦夫

白壁彦夫 : 1969年、朝日賞受賞

 胃のX線二重造影法の開発とそれによる早期胃がん診断技術確立の功績

せせらぎの小道:1960~1980年

この時代は自分史的にいうと、10代後半から40才頃までに相当します。

今この時代の社会経済構造が見直されている。自分が何を見て、何を考えて、何をしたかということを考えてみるのは意義深いものがある。今の徒然草が出来上がりそうな気分だ。

1960年頃から日本では重化学工業が発展してきた。60年安保があり、東京オリンピックがあり、浅沼稲次郎さんやケネデイー米大統領の暗殺事件があり、ビートルズ旋風があり、裕次郎さんや長嶋茂雄さんや王貞治さんがいて、加山雄三さんがいて・・。

ベトナム戦争があり、公害・薬害が目立ち、社会のキャッチフレーズは「消費は美徳」「大きいことは良いことだ」でした。患者を消費者として観てしまう医療制度にも、その封建制度にかてて加えて、大問題があったわけです。

大量生産・大量消費・大量廃棄、の社会経済構造でした ・・この言葉が全てを説明しているのに気がつく。

大学生の頃、私は、東西冷戦構造の中にあって、東と西の代理戦争のようなことを日本国内でやっていたような記憶がある。恩師を失ったり、友達と疎遠になったり、警察と鬼ごっこをしたり、新しい友達が出来たり、それはもう大変。

「青春時代が夢なんて、後からしみじみ思うもの、青春時代の真ん中は、道に迷っているばかり」と森田公一とトップギャランが歌ったものです。

 

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写真提供:ソロキャンパー石井さん。

シンメトリー、整合性、規則性、色彩、撮影者のお好みの構図、これは美しさの基本なあり。花の咲くところに”ぼっちキャンプ”に出かけてもらって、写真を撮って頂いて、私は蘊蓄(うんちく)を重ねるだけ。また楽しからずや。