北京郊外の万里の長城を、郡山商工会議所の行事で訪ねたことがあった。
圧巻でした。
先だって亡くなった義兄の勧めで昔買った古典文学本を出してきました。新潮日本古典集成・平家物語(上、中、下)、徒然草、和漢朗詠集など。そこはかとなく楽しみながら読める自分を発見するのも、いとおかしきこと。人々の物語だ。
人の物語といえば、陳舜臣さんの物語には圧倒されるものがある。歴史学ではない、経済学ではない、人々の物語です。平易な言葉で綴られる中国五千年の歴史や十八史略、陳さんの深い文学に対する洞察を基に語られる漢詩の世界、等々、この方は人として第一級極上品です。
文庫本で読むと今の自分には文字が小さすぎて疲れるので、もっと大きな文字で印刷されている文庫本など無いものだろうかと思い大きめの本屋に行ってみたけれども、陳さんのコーナーが見つけられなかった。
電子書籍で買って読む。本当に読みたいものが電子化されていなかったりして、残念に思うことも多い。
雄大な物語の中に浸ってしまうと、現実の問題がなんと細かく煩わしく思えてくる。そう思っても、しっかり対応しないといろんな方達が迷惑を被っていたりする。
李白さんのように、月・自分・自分の月影、3人で酒を飲み、3人で踊り、3人で語らう。酔っ払ったら各々勝手に眠ったり消えたり、そんな時を持ちたい、、などということを考えると、実行すると、これは仙人の世界。他人が観ていたとすると「ファナテック」あるいは「ルナテック」ということになる。他人の目を気にするようでは仙人にはなれない。せいぜいあくせくと頑張れば?というのが現実。
司馬遼太郎さんの小説はスピード感があって、これまた楽しい。「坂の上の雲」に描かれている乃木希典は、大いに気の毒に思う。が、これが司馬史観による小説なのだと思うと納得がいく。歴史学とは違う歴史小説だ。
文学とか、思想とか、哲学というものはこのような側面をつねに持っている。科学ではない。
我れ歌えば 月 徘徊し
我れ舞えば 影 零乱(りょうらん)す
醒(さ)むる時は 同じく交歓し
酔いて後は 各々(おのおの)分散す
永(とこ)しえに 結ばん 無情の游(ゆう)を
相期(あいき)さん 遙(はる)かなる 雲漢(うんかん)に