せせらぎの小道:日本人の胃潰瘍から

研修医の時代に座右の書としていた疾病論がある。

五ノ井哲朗著:日本人の胃潰瘍胃潰瘍並びに胃潰瘍症の疫学:1977年(昭和52年)新興医学出版社。

 医学的に観ると、胃潰瘍は良性から悪性の間にまたがっている。こんなに幅広い範囲に分布する疾患も少ない。また、社会生活においては、常態から病態の間にも位置している。潰瘍を持っていながら、普通の仕事をし、飲酒もしている人がいる。一方、病臥している人もいる。これが胃潰瘍という名の病気の実態である。

 

*本文は胃潰瘍という疾患の疫学を、夏目漱石のエピソードを交えながら、各方面から論じている。そして・・・。

 

おわりに

 こぶしの花は、不特定多数の木々に、無選択的に、散発的に咲くのではなく、比較的少数特定の、こぶしの木に、選択的、集中的に咲くのだ、という認識を、いつ、どのようにして得たのであろうか。ふと、独りでに思いついたのか、それとも、誰かが教えてくれたのか、あまりにも他愛もなくそれを知っているという事が不思議に思われる。

雪が消えると、やがて、こぶしの木にこぶしの花が咲くというのも、理由があればいつでも、胃潰瘍症に胃潰瘍が発生するというのも、認識の質としてみれば、そう変わるところはあるまい。何故、その一方だけが、迂遠で煩雑な論証の過程を必要とするのか。

 

*五ノ井先生の時代では(私の研修医時代では)ヘリコバクター・ピロリの認識がなく胃潰瘍の一部は感染症であるという認識もない。

 

*私はこの胃潰瘍症という言葉をウイルス感染症という言葉に置き換えて考えてみた。数あるウイルス感染症の中の一つが新型コロナウイルス感染ということになる。あるいはCOVID-19感染。

天然痘ウイルスと人類の歴史であったり、法定伝染病と日本人の現代史であったり、そのようなものが次々と浮かんでは消えして、人々の気持ちの不変性と普遍性が解りそうな気持ちになったりして、喜怒哀楽の観念が一挙に湧き出てきます。

ひとは何故に簡単に・単純に手を取り合うことが出来ないものかという疑問が残る。