せせらぎの小道:蜜に群がる

2021年4月16日:毎日新聞電子版

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歌人の美原凍子さんはその歌のなかで「原発という蜜に群がる蟻、逃れる蟻」というふうに人間社会のことをアリに例えた。群がる場合を推測してみると、責任感や義務感を標題として「蜜」を得ようとする姿が想像される。それも多大な犠牲を払うと云うことを忘れ、密の甘さだけを求めているように見える。「甘さ」は今現在の群がる人のもの、リスクは後世が背負う。世界中が同じ考えなのでしょうか。

 

例えるという方法のことです。「擬人化」という方法がある。

最近、清水 茜さんがだしている「働く細胞」「働く細菌」という漫画や動画を見て感心している。実に良く動物の細胞などの働きを学び、それぞれに適切なキャラクターを持ったヒトを配置し物語としている。俗に言う「ハマル」という状態が今の私。

腸内細菌のことも考えさせるものがある。この細菌の群はコレステロールと同じく「善玉菌」と「悪玉菌」に別けられているのだが、最も数的に多いのが(6割以上)日和見菌と総称される細菌群。この日和見菌の動向によって腸内の健康状態が左右される。

要するにキャステングボードを握っているのが日和見菌と言う事になる。善玉菌だけでは腸内は良くならない、悪玉菌だけではそう問屋が卸さないという社会だ。腸内社会の恒常性を保っているのは日和見菌と言う事になるか。

すべてが解ったようなことを言っているのですが、実はこの日和見菌という細菌群の「個々の姿」を知らないだけなのだとも思っている。個々の細菌にはそれぞれに生きる姿があって、それぞれに確たる働きをしているのだが、それらを私たちが知らないで「日和見」などと云う軽蔑的な形容詞をつけているのでしょう。

 

こういう姿は人間社会にもよくあてはまる。善悪二元論だけで(ゾロアスター教のように)すべてが推し量れるものではない。

原発のことについてもそう単純に割り切れないことの方が多いのだから、成るように成る、といって日和見を決め込む事もひとつの重要な姿なのだろうが、後世に与える影響に対しては日和見ではありたくない。