せせらぎの小道:真珠の首飾り(2)

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真珠の首飾り:カーテンコール。菅野睦子女史が見たときの写真ではない。が、ベアテ・シロタ・ゴードンさんの姿、ジェームス三木さんの姿が写されている。

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今、秋篠宮家が主張しているのがこの事です。婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する。

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WIKIPEDIAより写真を拝借した。

さて菅野睦子女史が制作したベアテさんは、ベアテさん22才の時の頭像です。サイン会の時に言葉を交わした貫禄十分のベアテさんは写真のような姿であったろうと推測できる。なぜ、若いときの頭像を造るというようなことが出来るのだろうかという疑問を持つ方がいるかも知れない。そこが才能と呼ばれる部分なのです。

菅野睦子女史は劇場に電話した際に、ベアテさんについての資料、を頂いている。その中には若きベアテさんの写真もあったに違いない。それが参考になるのです。

私がお世話になった時の菅野睦子女史も、実物をいつも見ているわけには行かないので何枚かの写真を頂いて構想を練っていました。その時は近づいて話しかけるのが怖い感じがしました。

Beate Sirota Gordon 1923年10月25日ー2012年12月30日

 22才で連合国最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、GHQ憲法制定会議のメンバーとして日本国憲法の人権条項作成に関与した。

日本国憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)草案を執筆。

ベアテさんに関する自著、共著は多数あります。真珠の首飾りとはベアテさんのクリスマスプレゼント、日本国憲法第25条のことです。

 

菅野睦子女史は中学校の教員をしながら制作活動を続けていたが、それは生活苦との闘いであります。幸いベアテさんの頭像が、ベアテさん自身の活動に乗って、世界各国で賞賛されるに至りました。「モンゴル共和国でも認められました」というお便りを頂いたときがあった。

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伊達市梁川町堰本(せきもと)小学校に建つ菅野睦子作「飛翔」。二人の児童が高い空に向かって飛び立たんばかりの姿が印象的です。堰本小学校のPTAの依頼によって制作された。PTAとは実は同級生。

菅野睦子女史は大学を卒業後、常葉町立常葉中学校関本分教場に赴任しないかとの打診を受けた。自分が卒業した小学校が堰本小学校で、文字は違っても同じ発音の関本分校にはきっと何かの縁があるに違いない・・ということで赴任したとのこと。本当にこの人の作品は、柔らかく優しく 包み込むような何かが何時もある。

 

医学部に入ってから菅野睦子女史に会うときは必ず何時も解剖学の話。彫刻家にとって人体の解剖学は何にもまして大切なものらしい。ただ単に凹凸を表現していては意味がない、皮膚の下にある筋肉の動きを捉えたいから・・・という。

最後に「もっと勉強してくれなきゃ困るじゃないですか!」・・ああまた往復ビンタだろうか・・ではなかった。なんと医大の解剖学教室の仲西助教授のところへ直行したとか。

 

先に才能という言葉を使った。こういう才能を人一倍持っている友人がいる。村田哲二という。石筵でSTADIO ZAZAの店主をしている。腕前は左甚五郎級と見ている。ただし右利き。震災の時、部屋にかざってあった菅野睦子作「もも」が落下し額縁に損傷が生じた。それを村田哲二氏がみんごとに修復。

「金に糸目をつけてはいけない作品の修理ですが」といってお願いした。それなりのお値段で満足いく修理でした。

この作品は菅野睦子女史が保原中学校教員時代、美術クラブの生徒さん達と共に展覧会を開いたときに出品された連作の中の一つ。私の医科大学入学を祝って頂いた作品でした。

この作品は菅野睦子女史が亡くなって後、堰本公民館で、弟さんの源太郎さんが追悼展覧会を開いたときに展示された。額縁に村田哲二氏の名前があったのを見てそのいわれを源太郎さんが知りたがった。説明してあげたところ「そんなにも大切に思っていてくれて、姉もきっと悦んでいることと思います」といって涙を浮かべておられた。

村田哲二氏の腕前もしっかり褒めてくれた。

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葬儀のあった日から少し経て「ムッチャン先生」(菅野睦子女史の愛称)の部屋を訪ねた。「姉は晩年は病苦との闘いでした。少作の人でしたが、各々の作品には本当に姉の魂がこもっています」という。テーブルクロスその他すべて女史の作品です。ベアテさんはブロンズ像になって遠くの空を見上げているようでした。

太平洋美術クラブというサイトを開くともう少し女史の作品が見られる。

 

ベアテさんとの出会いは本当にすばらしいものだったと思う。「マア、男尊女卑は良くない」と何時も言っていたので、女史にとっては何物にも代えがたい「真珠の首飾り」だったに違いない。マア・とは私の愛称。