せせらぎの小道:野口清作と猪苗代城

2020年晩秋:猪苗代城祉

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野口英世博士生誕のふるさとづくり推進委員会による案内文。大正時代の亀ヶ城という写真入り。人力車と車夫の姿が映っている。

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野口英世の首像は猪苗代湖を背中にして古城の本丸方向を見ている。その先に磐梯山の勇姿が迫る。

前面の碑文を見る。

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野口は日本でもアメリカでも医師免許証を取得していない。私たちは細菌学者と見ている。ここでは科学者:人道主義者:殉教者です。加州とはカルフォルニア州。1956年11月3日、The Alameda Naval Air Station Association が寄贈。

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背面の碑文であるが、もう少し美しく取り付けて欲しかった。

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本丸跡から見た磐梯山。清作少年が朝な夕なに仰ぎ見たいわゆる表磐梯の姿。当時は当然のことながら引っ掻いたようなスキー場の姿は望まれなかっただろう。

やはりここは桜の季節とか新緑の季節が心地良い。

 

野口英世博士の墓はニューヨーク郊外ウッドローン墓地にあるが、その墓誌銘は以下の如くです。

HIDEYO NOGUCHI 

BORN IN INAWASHIRO JAPAN NOVEMBER 9 1876

DEAD IN THE GOLD COAST AFRICA MARCH 21 1928

MEMBER OF THE ROCKFELLER INSTITUTE FOR MEDICAL RESEARCH

THROUGH DEVOTION TO SCIENCE 

HE LIVED AND DIED FOR HUMANITY

 

ほぼ猪苗代城にある碑文と同じ内容のことが記録されている。

*実のところ私はアメリカという国に行ったことがない。この記録は「第三藤軒随筆」から拝借した。これは市販されている随筆集ではない。かつて清水台に「安積病院」を建て、院長を務めていた鳥海克己先生の私的な随筆集である。私はこの方に医学というよりは宝生流謡曲を伝授頂いた。お亡くなりになる直前の鳥海先生でしたが、大変に意気軒昂、細かいことはかまわず、謡曲の神髄だけを一緒に学ぼう、という寛大寛容何でもありの御伝授でした。御伝授が終わると「男児は酒を好むものだ」といって無理して私などにつきあってくれた。

私は謡曲の免状は持っていますがからっきし駄目です。しかし鳥海藤軒の最後の直弟子という栄誉は私だけのものであります。(えへん)。なので、鳥海先生の書いた随筆は私が書いた随筆のように思う存分活用させて頂いています。鳥海先生:ドクトルトリノーミはそれを許すだけのユーモア精神がある。笑って:微苦笑して見ているでしょう。

鳥海先生は東京帝国大学夏目漱石先生の英文学の講義を受けている。

 

昭和23年6月23日:藤軒随筆

 英領アラクに建設せられた野口ヤング両博士記念塔には下の銘が書かれているが、原文は手に入らぬ。

「英領アラクに於いて研究中黄熱病の爲に1928年5月21日と29日に相次いで殉職されたるロックフェラー財団野口英世博士と医学研究所の所長ヤング博士の功績を偲ぶ」

 

昭和46年10月3日:藤軒随筆

 野口博士の死因は前述の如く黄熱病であったが、生前には種々の病気に見舞われている。第一次大戦当時(大正6年)、米国に留学した東北大学の山川章太郎教授は、ニューヨークのロックフェラー研究所に出入りし、野口博士の病気を診察した。彼が当時、秦夫人に書いた手紙の一部を抄録してみると「・・・野口博士は目下重症だ。当市第一流の内科医が永く見て診断がつかず、ついに俺が一見してチフス又は類似症と診断し、更に血清診断してパラチフスと決定し、毛唐の医者共を驚かしてやった。所長はじめ一同おれの診断には敬服している。パラチフスだから生命の危険はあるまいと思うが、然し野口は大動脈不全閉鎖という難病を持っているから心臓からやられるかも知れぬ。今死なれると日本のためにも惜しいし、おれも漸っと(やっと)論文を書き終わったところだから、その処置に一寸困る。治療は毛唐医に任してあるから責任なし。・・・近来内科医として盛名を博し頼まれて面倒臭くてコマル。・・・・」

山川先生異郷に於いて盛名を博し、得意思うべしである。又大いに日本医学の声価を高くしたことは我等も肩身の広くなるを覚える。因みに野口博士が大動脈閉鎖不全を持っていたことは余り広く知られてないようだ。(山川先生追悼録による)。

 

*野口は人種差別は受けるは、免許証がないから医師からは差別されるは、貧乏研究員なので「山師」の様な発想はするは、今の大統領のように地位を無くすと借金の返済を迫られるかも知れないは、とにかく自転車操業。舌を出してハッハしながら嗅ぎ回っている犬のような小柄な研究員だったと推測される。決して「三波春夫でございます、お客様は神様です」なんて事は冗談にも言えなかっただろう。

 

*そこが私には痛々しいほどの奮闘と映り共感も同情も何でもかんでもこの人の人生に感じましてこのような記録をする次第なり。・・です。「清作!負けたらいかんぜよ、生きて生きて生き抜け!(金八先生)」武田鉄矢