せせらぎの小道:明治のパンデミック

明治10年 西南戦争 西郷隆盛 城山にて自刃。

明治12年:海外から入ってきた伝染病コレラが大流行した。当時は原因も不明、治療法も確立してはいない。虎列刺(これら)と表記され虎の化け物か何かに見立てられて恐れられた。明治時代には何度かコレラの流行があったが、12年の流行がひどかったようだ。

国内で感染者16万人以上、死者10万人以上。

西南戦争の死者は約12,000だったので、その約8倍の死者数が記録された。

コレラ菌の発見はこの4年後。発見されたからといってすぐに治療法が確立されたわけではない。

 

コレラ患者が発生すると、警察が強制的に家に押し入り患者を隔離した。

これらの様子は石川啄木が「赤痢」という小説で記録している。また大正初期に中條ユリが日記の中で東京でのコレラ流行を遠くから観察している。

 

コレラ祭り」が各地で行われるなど神頼みも多くあった。流行の渦中に来日したアメリカの元大統領グラントは、コレラ流行により神戸に入港出来ず、京都訪問を断念せざるを得ず、大いに悔しがったという。

 

立川昭二著「明治医事往来」より

明治12年8月8日「朝野新聞」

新潟港の貧民米価暴騰に狂ひ立ち、大挙米商を襲撃ー次々と放火。

新潟警察署長は県令に上申書を提出。暴動の原因として・・・。

第1条:米価沸騰

第2条:虎列刺予防に羅る魚類販売禁止

第3条:虎列刺患者を避病院へ送ること

米価高騰に不満を抱いていた民衆が、コレラ対策を機に暴徒化したと考えている。

詳細

 8月5日12時10分、新潟区祝町(現新潟市)願隋寺近くに屯集した民衆は、コレラ死亡者を護送してきた巡査2名を打擲し、その棺桶を奪い取り、寺の鐘をうちならした。数百人にふくれあがった群衆は、金持ちの家に乗り込んで焚き出しを命じ、断るとその家を散々に打ち壊した。半鐘もなり出し、火事場騒ぎのようになった。

 暴徒となった群衆はますますあばれまわり、米屋の屋敷をつぎつぎと襲っていった。本署から大勢の巡査が駆けつけ、佩刀と官棒を振りあげて鎮撫にあたったが、暴徒は両側の屋根に駆けのぼり、瓦を取って投げ、薪棒や鳶口で抵抗を始めた。是非なく巡査は抜刀して進み、暴徒もついに適しがたく、四散していくところを、首謀者をはじめ7名を捕縛し、午後3時30分ようやく沈静した。

 

 *避病院の様子、巡査が民衆を取り締まるやり方などは石川啄木赤痢」に詳しく記されている。そして人々が神頼みに走る様子も。

 

当時は法律で、コレラ患者が発生すると、警察が強制的に家に押し入って患者を隔離した。そのお先手となったのが医師であり看護婦であったわけです。

それらは御上の御威勢を傘に、消毒・隔離を強行したものだから、こういった防疫行政が、たまたま御一新への夢敗れた民衆の誤解・反感・憤激をかった。

サーベルをガチャガチャさせて警官が来る。一緒に医療団がやってくる。とさあ大変。

患者移送をめぐるトラブルは発生するは、デマは広まるわ。医師が消毒用に石灰を川に撒くと、「毒薬を川に入れている」と勘違いをした住民が医師を撲殺したこともあったそうです。

火葬場を建設しようとすると、付近の住民が「煙を吸うとコレラになる」と役場に押し寄せて暴動になったり・・・・。

 

明治18年:日本初の下水道が東京神田に完成した。

 

情報を正しく伝える、それを咀嚼できる住民がいる、という条件が揃うまでには永い時間がかかった。コロナ感染症に対してはどうだろうか?

 

三下り半で病院へ妻さられ

 「三下り半」は離縁状の書式が三行半で書くように定められていたから、離縁状の異称とされた。それと下痢が3回半続いたことをかさね、妻が避病院へ連れ去られることと 離縁とをかさねている。