せせらぎの小道:母成峠の碑文

スタジオZAZAからさらに進んでかつての有料道路半ば辺りに母成峠がある。当地は猪苗代町に属する。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの前、いわゆる会津の上杉討伐が徳川家康によって計画された。会津に所領のあった上杉景勝直江兼続らは徳川家康との戦いに備えてこの母成峠に防塁を築いた。徳川家康が一転して関ヶ原に向かったためにここでの戦闘は無かった。

時は過ぎて1868年10月6日「慶応4年8月21日(旧暦)」、戊辰戦争の折、会津境を守る東軍(旧幕府軍)と会津鶴ヶ城へ向かう西軍(新政府軍)との間に戦闘があった(母成峠の戦い)。その時にも以前の防塁を利用し新たな防塁が築かれている。

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平成29年5月に設置された案内板。現在に生きる私たちにとっては大変に分かりやすい文章です。

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昭和57年10月6日 母成両碑建設実行委員会による碑および碑文。

慶応4年(1868)八月二十一日という日付に注目する。この八月という日付をそのまま鵜呑みにすると、この戦いは暑い夏に起こっていることになるが、実は違う。

この戦いは、冬に入ると雪の季節になるために西軍にとっては不利な展開になる、西軍にとっては何としてでも冬になる前に完了させたい、奥羽越列藩同盟の盟主である会津をどうしても潰したい、そして枝葉の諸藩を戦わずして降伏させたい、というものでした。白虎隊の戦いは冷たい秋雨の中で始まっている、ので話が合わなくなる。

 

今に生きる私たちは漢字に弱い、十干十二支に基づく旧暦に弱い、故事来歴に疎い、古典文学を読むと季節感にづれを感じる、ここの碑文はそんな事どもを語ってくれた。

その訳は?

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松平保宣(保定ではないと思う)さん(会津藩主の御子孫)の筆になる碑文。

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一人一人の名前を追っていくと幕末から明治にかけての物語ができあがる。土方歳三新撰組副局長)、板垣退助自由民権運動)、谷 干城(西南戦争、熊本鎮台)など。

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答はここにある。決戦日(1868)慶応四戊辰年八月廿一日(太陽暦十月六日)。中秋である。