郡山市久留米5丁目、浄土真宗本願寺派久留米説教所。私の自宅の北側にある説教所。ここが明治天皇に関する聖蹟。
碑文:明治天皇御野立所跡・宮内大臣正三位勲一等 湯淺倉平謹書
*湯淺倉平さんは第2代目寿泉堂総合病院院長故湯淺大太郎先生が「倉平叔父さん」と呼んだ方。内大臣。故湯淺爲乃進先生の弟さん。
碑文:聖蹟 史蹟名勝天然記念物保存法ニ依り昭和九年十一月一日文部大臣指定。昭和9年に文部大臣により指定された聖蹟ということを示す。
説教所の境内に明治天皇お手植えの松がありました。今は枯れてしまっています。
明治天皇東北巡幸(明治14年)の際にこの地で野立が催され、記念植樹があった。
主石碑は昭和10年建立されているがその碑文を読む。
明治十四年十月五日聖駕北巡御還幸ノ途次コノ地ニ御駐輦遊ばされ親シク我ガ安積移住開墾ノ實況ヲ臠バセラレ参議大木喬任ヲシテ畏クモ聖諭ヲ傅ヘシ又農具料トシテ金壹千圓ヲ各社移住開墾民ニ賜リ大イニ斯業ヲ奨励シ給ヘ依ツテ移住開墾民等往時ヲ追懐シ聖恩ノ優渥ナルヲ感激普ク能ワズ丕顕ナル聖諭ヲ奉禮シ光輝アル聖蹟ヲ永久ニ表シ以テ教化ニ資スル所アラントス乃チ謹ミテ此ノ碑ヲ建ツ
昭和十年四月 福嶋懸安積郡大蔵壇原移住開墾民發起人惣代 淵上平次郎謹識
*明治14年の巡幸の地を、昭和9年に文部省が聖蹟として指定し、翌昭和10年にこの碑を建立した・・ということになる。
*明治10年:西南戦争、西郷隆盛没。明治11年:旧士族移住開墾政策の立役者大久保利通暗殺さる。安積移住開墾が頓挫するか継続するかの瀬戸際の時、明治天皇が東北を巡幸し移住開墾民を慰撫したわけです。そして安積疎水建設の物語へと桑野村は進んでいくわけです。
*明治のこの時、東北本線は開通していない。輦:とは人力車、車夫の引く車のこと。ご一行は馬車と人力車の行列であったことがうかがわれます。
*明治天皇は移住開墾民と親しく懇談したという。又下賜金1,000円がありました(農具料として)。こういった君民の関係は日露戦争前後まであったように思います。例えば野木大将などは農民と一緒に農作業をしたり宴を催したりしていた。移住開墾民の感激はひとしおであったと思うし、それを普く人々に知らせ教化するためにこの碑を立てたという心意気が伝わって来る聖蹟です。
*安積原野から見た爆発前の安達太良連峰は、磐梯山はどんなだったろうか?額取山連山はいかように明治天皇の目に映っただろうか?。独鈷仁吉さんはいっつもこんな話をしていましたっけ。
漢字の判読がいまいち正確ではないので(石碑の劣化と私の知識不足による)お気づきの方いらっしゃいましたらご教授賜りたく思います。
そしてこういったものは劣化する前に判読記録するなり、電子データとして保存するなりしておけば良いかと思ってもいます。