せせらぎの小路、赤痢

石川啄木の作品「赤痢」、立川昭二著「明治医事往来」を参考にして赤痢に関する人間模様を見ます。学術論文ではない。中條百合子とも無関係。

赤痢:下痢、発熱、血便、腹痛などを伴う大腸感染症。細菌性赤痢とアメーバー性赤痢に分けられるが、一般的には細菌性赤痢のことを指す。

 

伝染病(法定伝染病)としての風景

 啄木は渋民村(生まれ故郷)の風景描写から始めている。そこに赤痢が流行った。

「凸凹の石高道(いしだかみち)、その往還を右左はら挟んだ茅葺屋根(かやぶきやね)が、凡(およ)そ六七十もあらう、何の(どの)家も、古びて、穢くて、壁が落ちて、柱が歪んで、隣々に倒り合って(のめりあって)辛々(やうやう)支えている様に見える。家の中には、生木の薪を焚く煙が、物の置き所も文明(さだか)ならぬほどに燻って(くすぶって)、それが、日一日、破風(はふ)から破風と誘ひ合っては、腐れた屋根に這ってゐる。両側の狭い浅い溝には、襤褸切(ぼろきれ)や「にんじん」の切端(きれっぱし)などがユラユラした涅泥(ひどろ)に沈んで、黝黒い(どすぐろい)水に毒茸のような濁った泡が、プクプク浮かんで流れた。」

 

*法定伝染病である。対処方法は”隔離”・”厳重な生活管理”・そして取り締まり及び強制。警察官を先頭に吏員、医師が一団となって、お上の御威勢を傘に、消毒・隔離を強行する。佩剣(はいけん)をした巡査が靴音を響かせて村中に睨みをきかせるわけです。家々の軒下と云わず洗い場と云わずあらゆる所に石灰がまかれ、あたかも雪景色のごとくとなる。

*赤痢は、コレラと共に、明治の人々にとって最も恐れられた伝染病であった。明治初年先ず西国に流行し、20年代に交通の発達と共に畿内から東日本に伝播し30年代には東北各県が流行地域となった。いったん流行すると、そこに定着して流行を繰り返した。

明治年間の赤痢患者総数はコレラの倍以上で、死者数も伝染病の中で首位であった。

 

赤痢病の襲来を被った山中の荒れ村の、思い恐怖と心痛(そこびえ)に充ち満ちた、目もあてられぬ、不愉快の状態は、一度その境を実見したんで無ければ、迚も(とても)想像に及ぶまい。平常から、住民の衣、食、住ーその生活全体を根本から(ねっから)改めさせるか、でなくば、初発患者の出た時、時を移さず全村を焼いて了ふ(しまう)かするで無ければ、如何に力を尽くしたとて予防も糞も有ったものでない。

三四年前、この村から十里許り隔たった或村に同じ病が猖獗を極めたとき、所轄警察署の当時の署長が、大英断を以て全村の交通遮断を行ったことがある。お陰で他村には伝播しなかったが、住民の約四分の一が一秋の中に死んだ。」

 

*伝染病発生に直面した人々が、消毒や交通遮断以上に恐れたのは、強制隔離つまり隔離病舎に収容されることでした。隔離病舎または避病院は、病院とは名ばかりの臨時の仮小屋で、人里離れたところにおかれ、まともな医師や看護人はいなかった。

 

「万一医師にかかって隔離病舎に収容され、巡査が夜毎に怒鳴って歩くとなると、噂の拡がると共に病が忽ち村中に流行してくるーーと、実際村の人は思ってゐるので、疫そのものよりも巡査の方が嫌われる。

初発患者が見つかってから、二月足らずの間(うち)に隔離病舎は狭隘を告げて、更に一軒山陰の孤家(ひとつや)を借り上げ、それも満員といふ形勢(すがた)で、総人口四百内外の中、初発以来の患者、百二名、死亡者二十五名、全癒者四十一名、現患者三十六名、それに今日の診断の結果で又二名増えた。戸数の七割五分は何の家も患者を出し、或家では一家を挙げて隔離病舎に入った。」

 

寡婦の四十女お由の家からは嬶(かかあ)どもが集まり、祈祷や御神楽が聞こえてくる。お由は南の村から布教に来た松太郎を逗留させ、「新道天理教会」という看板を掲げている。

天理教は一月余の中に、新しい信者が十一軒も増えた。

 

*しかしお由は発病する。松太郎に向かって「畜生奴!狐!嘘吐者(うそつき)!天理坊主!よく聞け、コレア、俺あ赤痢に取り附かれたぞ。畜生奴!嘘吐者!畜生奴!」わめきながら倒れ、あわれな布教師松太郎が、暗い布団の中で号泣する。

 

官は「オイコラ」と言って住民が勝手に出歩かないように監視している。住民は医者に診てもらって赤痢と診断されたら、名ばかりの避病院に送られ、「もうおしまいだ!」と失望し、宗教にすがっても結局だめで、八方塞がり。啄木は、とても想像にも及ぶまい!と叫んでいる。

赤痢は農民病とも言われ、農山村に流行がはじまるのを特徴としていた。