新型コロナと季節のインフルエンザ

2020年9月5日福島民報の記事より

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同時流行に備えるに当たって、先ず、私たち医療生活協同組合は組合員への医療サービスを最優先します。従業員の感染予防もまた優先します。高齢者は役所への電話相談ということが苦手でしょうから、当施設の病院直接ではなく、組織部へ連絡していただくと大変ありがたい。日頃の組合員活動が大きくものを言います。組合員が出資金を出して運営に当たっている病院ですので、そのことを大いに活用したく思います。

 

天才の成せる作品

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吾輩は猫である。名前は未だ無い。

木彫、彩色、制作者 : 熱海町石筵スタジオZAZA 店主 村田哲二。通称テッチャン。友人から制作を依頼され、彫る。作品は友人宅へ。記念として写真に収めていただいたものをブログ管理人の強要に応じて電送した。木彫であるから運動はしない。

管理人評:名匠 左甚五郎 の作品に勝るとも劣らない。日光東照宮の作品と同価値あり。

 

桑野村メモ

桑野村は福島県安積郡にかつて存在した村である。明治時代に開墾によって形成された。現在の郡山市桑野、開成地区周辺。

明治初期まで大槻原と呼ばれる未開拓の野原だったが、明治5年に福島県権令に就任した元熊本藩士安場保和は、かねてより北海道開拓に関心の高かった旧米沢藩士の中條政恒を県の勧業課開拓掛の典事(課長職)に任命し、戊辰戦争後の士族の授産策として大槻原開拓の全てを任せた。

最初に旧二本松藩士族19戸が大槻原の一角(現在の郡山市開成地区周辺)へ入植し、開墾が始まった。

明治6年(1873)に中條は阿部茂兵衛ら25人の郡山町の富商たちを説得して「開成社」を設立し、開拓資金と移民を募り、開墾を本格化した。「開成」の名は、中條の座右名である「開成成務」からとった。

大槻原には桑が植えられ、道が造られ、明治7年には開拓事業所兼区会所として擬洋風建築の「開成館」が建てられた(のちの郡役所、現郡山市開成館)。

明治9年(1876)に近村の一部を合併して人口700人の桑野村誕生(総戸数203、うち入植187戸)。村名は桑を野に満たしむの意。同年、明治天皇東北巡幸(明治14年)に先んじて下検分に郡山を訪れた大久保利通に中條が開成社の成功と国営安積開拓の必要性を説き、国営事業第1号として安積開拓と安積疎水事業を決定した明治政府は、明治11年より全国から士族移住を開始し、約500戸2000余人が入植した。

疎水は明治15年に完成し、村落は発展していった。

 

宮本百合子(中條ユリ):桑野村開拓に尽力した中條政恒の孫で、同村開拓を題材とした「貧しき人々の群」で作家デビューした。

 

久米正雄: 母親の実家である桑野村開成山で少年期を過ごし、同村を舞台とした「牧場の兄弟」などの作品がある。

以上 Wikipedia