古代の湖(8)

f:id:kuwanomura:20200816084824j:plain

全ての話は古代の湖、郡山湖の存在を学んだこと、そしてこの大安場古墳の頂から古代の湖を想像できたことから始まる。画面中央から左方に拡がる連山は額取山連峰とするとこの連峰は古郡山湖と猪苗代湖を隔てる衾(ふすま)のごとく観望される。

f:id:kuwanomura:20200812140514j:plain

早春、片平町方面から額取山を望む。額取山(ひたいどりやま)はまたの名を安積山と呼ばれている。(安積山については諸説あり)。安積地方の代表的な山として、昔から親しまれている。郡山市内から望むと、やはり安達太良連峰が別格の感があるが、額取山の根張りの強い姿が映ってくる。特に晩秋、日没の頃、あかね色に染まる西方の空にこれもまたあかね色の額取山が浮かび上がってくる様は圧巻である。

郡山市史などを参考にしながら歌に詠まれている安積山、安積沼(古代の湖の名残として)を考えてみるとこれらは陸奥を想像させる歌枕(うたまくら)である様に思える。

高橋富雄博士は東北学論集のなかで「安積山とは安達太良山のことである」という論を張るに至っている。大安場古墳から安積原野を望むときにその論が自分としては納得できる。

 

それはさておき額取山の話。源義家八幡太郎義家)が元服の儀式をあげたことに因んで命名された山の名という。そして源氏の大将となり(大将旗山)、旗揚げをした(高籏山)と連峰を造る。前九年の役後三年の役、と太郎義家の武勇伝が続く。

高籏山に登ろうとして源田温泉から向かう。太郎義家が旗を巻いて協議した場所が旗巻平、陣を構えたのが八幡岳、休んだ石が休石、うますぎる話が沢山出てくる。

安積原野が湿地帯だったと仮定すればこれらの峰峰が棟梁達の那須方面へ向かう通路として使われたとも思いをめぐらすことも出来る。(これは手前勝手な想像です)。

 

いつの間にかできあがった八幡太郎義家のイメージ。文武両道、質実剛健。とってもお優しい源氏の大将。悲運の大将九郎判官義経(牛若丸)と並んでスーパーエンターテナーとして活躍した。

ここからは歌枕ということを念頭に置きながら虚々実々の話となる。

1912年「尋常小学校唱歌八幡太郎

 1.駒のひづめも匂うまで 道もせにちる山櫻かな

   しばしながめて 吹く風をなこその関と思えども

   かひなき名やとほほ笑みて ゆるく打たせし やさしさよ

 2.落ちゆく敵をよびとめて 衣のたては綻びにけり

   敵は見かへり 年を経し 絲のみだれの苦しさに

   つけたることのめでたきに めでてゆるししやさしさよ

1番。駒の蹄も埋まってしまうほど、道も狭しと降り積もる山桜よ。ここに来てはいけない(なこそ)あるいは通るにはもったいないみちのくの関よ。駒を急いですすめるには気が引ける(花びらがかわいそう)。ということ?

ここは勿来の関なのだから、その名前の通り風よくるな。きれいに咲く桜を吹き飛ばさないで!

歌は、ふくかせを なこそのせきとおもえとも みちもせにちる やまさくらかな。

 

太郎義家は後三年の役で戦いを終え通りかかった勿来の関で詠んだという。

「なこそのせき」は歌枕として有名。考古学的発掘調査を根拠とした所在地の推定はなされていません。宮城県にも存在します。

多くの歌人に詠まれているがそれらの歌からは陸奥国の海にほど近い山の上の情景がイメージされる。近代以前の和歌においては、歌枕を詠むに当たってその土地に臨む必要はない。(近代和歌は写実を重んじる)。なこその関を詠んだ歌についてもその多くは現地で詠んだ歌とは考えられていない。ということ。

太郎義家の頃、勿来の関が関所としての機能を持っていたかというとそうではないらしい。あるいは存在すら疑われているとか。

2番。次回につづく。