古代の湖 (3)

采女祭り、安積山。

  義弟が片平町に菜園を始めた。夏の暑い日にジャガイモの収穫に参加した。しかもマスクをして。今年は雨のため野菜の生育が極めて良くない。こういう時はマスクを外しても良いと思うのに。

この菜園の指呼の間に山の井公園がある。采女神社と千枚田址を観た。采女神社といえば采女伝説。春姫さんの悲恋物語である。

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 コロナ対策とガス爆発事故と猛暑と。そんな中で郡山市の夏の行事他は全て中止。市民の翼も飛びません。毎年楽しみにしていたビール祭りもございません。ミス采女も選ばれません。郡山っこの心意気は今消沈しています。

写真は采女神社とその案内。

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安積采女のことについては、郡山市史、商工会議所の案内など参考にしていただくとして、例によって私は、面白ければよい、明日の活力になればよい、ということでいい加減な話をする。

公園内に千枚田と称されるゾーンがある。

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農学部出身の義弟は「あ、これは棚田だ」という。

山の井公園の千枚田址は棚田としてみると目を見張るものがある。この地に住んでいた人たちの思いが少しだが感じる事が出来る。

そして郡山市の夏祭りに繋がる采女伝説である。采女さんというのは一人だったのだろうかあるいは複数だったのだろうかなどと考えながら公園を歩く。

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采女神社の境内に咲いていたヤマユリのような存在だったのかそれとも奈良朝との社交においてなくてはならない存在だったのだろうか。(郡山市史を参照されたい)。

当時のコンパニオンのような役割でしたか?

 

私は今、古代の湖で頭がいっぱいである。なんでもかんでこの事に結びつけてしまうので悪しからず。

公園の近くには伊豆神社があり、上館、下館、の址を近くに観る事が出来る。これは安積伊東氏関連だからしばらく置く。

東方に阿武隈川を挟んで田村の山々が見える。大安場古墳のある方向となる。鎌倉岳、移が岳である。実は私はそこで生まれた。

 この歌に詠まれている「あさかやま」とはどの山の事であろうかという議論がある。日和田にある「安積山と山の井」、ここの西方にある額取山を「あさかやま」そしてこの池を山の井とするもの。

私は郡山市民が明日に生かす事が出来、元気になれる物語なら、細かい事はいわないで、愉しく語り歌い踊った方が良いと思うので、どちらでも「良い」。ここまでは。

 

菅原 稔 著「郡山は古代湖だった」を道標として高橋富雄東北学論集 第5部 第20集 地方(ぢかた)日本学 歴史春秋社 を読ませていただいた。

7、安積山を歴史にするもの。 から

 (基本に春姫さんの詠ったとされる、安積山影さえ見ゆる山の井、がある)

 「都人の安積山」。一つしかありません。そうです。「安太多良山」です。この山でしたら「万葉集」にも、第3428首「安太多良の嶺に臥す鹿猪の」、第1329首「陸奥の安太多良真弓弦著けて」、第3437首「陸奥の安太多良真弓弾きおきて」三首もあります。「安太多良真弓」は「安太多良山真弓」の意味です。そしてその名弓とその名弓士の故に、安太多良に因む「山」「国」「里」「人」は「代表みちのく」看板の名になっていたのです。これなら「あの安積山」になります。当時は、後の安達郡田村郡みな大安積郡の内でしたから、「安太多良山」は完全に「安積の山」です。

 

 高橋富雄先生は「あさかやま」とは額取山ではなく、日和田の安積山でもなく、「安太多良山」である、と結論をつけているわけです。

 

幾たびも菅原 稔 著書に戻る。

 漠然と、磐梯山が「会津峰」(会津国の山」として存在しているなら、安達太良山(二本松西方の山)が「あだたら真弓」として、万葉集にも著名であることから、敬愛する安達太良山が「安積山」(安積国の山)ならよかったのにと思い過ごした時期があった。安達太良山を遙拝したであろう古代人に思いをはせると、その感しきりであった事を覚えている。

阿武隈山系南側から、安達太良山を望むと安積沼にその影がくっきりと映し出される。富士五湖に富士山が映るごときである。高橋富雄「地方からの日本学」の中で、この説に出会った。

  学者(高橋富雄先生のこと)は、万葉集巻14巻3426番に会津峰の歌、そして第3428番に安達太良の歌が陸奥の国の歌として並んでいる事をもあげて、少々強引に「ご覧なさい。安積国一の立派な山が聳えているでしょう。あの山をそっくり写し取ったように水うみがひろがって、どのぐらい底が深いかわからないように心の奥底からお慕いして」ーそんな風に安積麗人の歌いかけが続いて、安積の春は日が暮れるのも忘れていたという一光景なのです。  と解釈を結んでいる。

 

以下はブログ管理人の戯言。

山の井公園近くの高台から東方を眺め渡し、万葉時代には当然姿形が変わっているであろう古代の湖の名残を想定して額取山がここに影を映していると仮定する。万葉びとの歌ごころを納得させ、その姿は安積の代名詞であるとし、歌枕に採用させうるだろうか?少しく無理があるかな。

 逆方向に考える。大安場古墳の頂点から眺望した安達太良山磐梯山と額取山連峰を遠望した写真を思い出してほしい。古代の湖(1)。

やっぱり古代の湖の名残を少しだけかも知れないが残している安積沼とそれに影を落とす安達太良山が、万葉びとも納得する、縄文の人々も観たであろう「あさかやま」という事になりはすまいか?

 これだと独鈷仁吉さんの「縄文の人たちが安積原野から観た安達太良山はどんな姿だったのだろうか?」という問いかけに答える事が出来そうな気がしている。まさに万葉の風景! 若いときに歌った校歌を思い出す。「若草萌ゆる安積野や 雲に聳ゆる安達太良 木陰さゆらぐ 風もなく、、」

 

*約10万年前の湖の話と、1500年前の奈良時代の話と、古墳の話と、今日明日の話と、ごちゃ混ぜにして話しているので、訳のわからない方には「訳のわからない文を書く訳のわからない人」に思われるでしょうが、それも事実です。 

次回は最終章、古代の湖と大安場古墳。つづく。